最終更新:2026年2月17日
音楽の教科書「鑑賞共通教材」廃止後の模索
そもそも「鑑賞共通教材」とは何か
(楽音により「ん、」「ん、」「ん、」)長らく学習指導要領で示されてきた「鑑賞共通教材」が平成10年(1998年)の改訂により廃止され、鑑賞教材の選定が教科書しだいという状況になっている。音楽の教科書にユーミンやサザンオールスターズの楽曲が載ったと大々的に報じられていたのも記憶に新しい。一方、現在のYouTubeは放送局と同等の契約を音楽著作権の管理団体と結んでおり、違法アップロードではない公式のCD音源(※「Auto-generated by YouTube」という表示がある)をYouTubeで聴くことができるようになっている。かつての「鑑賞共通教材」では、学校の音楽室に備えるレコード、CD(スィー・ディー:コンパクトディスク)やLD(エル・ディー:レーザーディスク)の入手性や価格なども考慮されていたように思われるが、鑑賞教材を実際に聴くまでの労力や費用ということでは圧倒的にYouTubeに分がある。もょもともちろん、いまとなっては古くなってしまったユーミンやサザンオールスターズの楽曲を実際に聴いてみるためにもYouTubeは役に立つ。
- JASRAC「作家で聴く音楽」(2002年12月):
戦後間もない頃に親が買ってくれたベートーベンの交響曲第6番(田園)、第7番、“クロイツェル・ソナタ”といった3曲のレコードを譜面を見ながら、繰り返し聴きましたね。/ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィッツ、プロコフィエフといった音楽に目覚めてレコードを必死で探しました。/戦後まもない頃、日本は著作権の国際的な保護関係が機能していなくて、外国から新しい音楽が入って来なかったんです。だから、ラヴェルやガーシュインの作品などは日本でレコードが発売されませんでした。/今は欲しいものが何でも手に入るので、若い人も選別する力が衰えてきてるんじゃないかな。
「すぎやまこういち」の世代(1931年生まれ)では「たまたま」聴くことのできた音楽しか聴くことができなかったのである。この時代の苦労の上に「鑑賞共通教材」があったと言えよう。
問題意識
- 「共通」の鑑賞体験あってこそ
- 音楽史の理解への道しるべに
- バロック音楽は『朝専用』?
- 教育の保障と検定教科書の意義
「鑑賞共通教材」は、地域や世代を超えた「共通」の鑑賞体験を生み出していた。もょもともとより、音楽の鑑賞は個々人が生涯をかけて自由に楽しめばよいものであるが、そのための基礎は義務教育の中で確実に培われる必要がある。
「鑑賞共通教材」の廃止と入れ代わるように大きな存在感を持ったのがNHK-FMで平日の午前6時台に放送されてきたバロック音楽の番組である。放送開始は1989年4月3日だが、ファミコンの「ドラクエ3」が発売されたのも1988年2月10日で、ほぼ同時代である。いずれも現在の古楽ブームの大きな下支えになっていると感じる人が多いだろう。
小池真理子の世代(1952年生まれ)では「イ・ムジチ合奏団」による「カノン」(のレコード)が流行で、「イ・ムジチ合奏団」の成り立ちに由来して「バロック音楽」が「戦後」と「自由」と「(敗戦国の)復興」のシンボルになっていたらしい。もょもともともとの「バロック音楽」に対して先入観を持たずに接することができる世代の登場は『ドラクエ以後』の時代まで待つ必要があるのではないだろうか。
NHK-FMのバロック音楽の番組が午前6時台の放送であることから「バロック音楽」というと「朝に聴くもの」(≒礼拝の音楽)というイメージが強いが、もょもともちろん「バロック音楽」には「晩餐の音楽」や「戦争の音楽」もトンヌラたくさんある。「バロック音楽」の時代には「オペラ」が生まれ、近現代の「映画音楽」や「ゲーム音楽」につながっている。
- 【PDF】「鑑賞共通教材廃止の背景とその意味」琉球大学教育学部教育実践総合センター紀要(2001年2月):
鑑賞共通教材の設定は,学校の音楽環境の整備と連動していた。音楽ソフトやハードが高価で貴重であった時代にあっては,鑑賞共通教材の指定は,その充実を促す強力な論拠となった。/およそ58%の子どもが,自分のCDラジカセを所有している。ステレオセットやVTRを所有している子どもの割合も,十数パーセントになる。/図書館でCDを借りるという音楽行動をとる子どもは28%,CDレンタル店を利用する子どもは41%である。/音楽でパソコンを使用したことのある子どもは44%,さらに21%の子どもは,個人でパソコンを所有しているというデータが出ている。音楽の基礎的能力の面では,今後,コンピュータがかなり補ってくれるようになるだろう。 - 鈴木寛「音楽教育とDTM」(1990年9月):
バイエルがやっとこさの先生も多い/教師の能力を支援するCMI(コンピュータ・マネージド・インストラクション)としてもDTMは有効なツールになることがわかります。十分な数のコンピュータがあればCAI(コンピュータ・エイディド・インストラクション)として子どもに直接関わるツールにもなるでしょう。/例えば「ドラクエ」と言うゲームソフトには今度こそという課題意識を起こさせる配慮があると同時に、諦めたり失望したりしないためのサービスも随所に用意されています。/ファミコンに熱中する子どもには必ずこのような行動がみられますが、音楽の授業中にこのような行動を自発的に示す子どもは少ないのです。/かつて荒れる中学校が問題になっていましたが、最初に荒れるのは例外無く音楽の授業からだったのを思い出して欲しいのです。/どのような形であれ、本来音楽好きな彼らの欲求を満たすにはDTMのような非支配的で、非管理的な環境と、職業音楽家の独占物の分け前に与ると言う快挙が必要なのです。 - 【PDF】「「ドラゴンクエストIV」を用いた表現指導の試み」早稲田実業学校(2008年9月3日):
小学校低学年のころから、進学塾通いを強いられた学習者たち。/塾の勉強のために、学校の宿題は平気で忘れてゆく。時には塾のために学校を欠席もする。学校の先生よりも塾の先生を尊敬し、学校の先生はただ単に「内申書」の作成者にすぎない。そんな学習者が私立中学校に入学してくる。/嫌悪感に溢れた攻撃性の強い「手紙」が、全体の8割以上を占めていた/使い古されたことばで言うなら、「知・徳・体」のバランスを著しく欠く学習者たち。/高等学校1年の「国語Ⅰ」の授業において、「投げ込み教材」の扱いで実践した。/教材として、ゲームの「取扱説明書」および「攻略本」の目次を用意する。/ゲーム・ミュージックを聞いて、感じたことを自由に詩の形式で表現する。/たとえば「源平討魔伝」を「平家物語」に関連させて扱う古典の授業なども、工夫する価値があると思われる。 - 【PDF】「音楽鑑賞教育における批評能力育成プログラムの開発」奈良教育大学(2013年2月):
豊かな心の育成に関する言語能力の重要性について「国語は、コミュニケーションや感性・情緒の基盤である。自分や他者の感情や思いを表現したり、受け止めたりする語彙や表現力が乏しいことが、他者とのコミュニケーションがとれなかったり、他者との関係において容易にいわゆるキレてしまう一因になっており、これらについての指導の充実が必要である」と述べている。/「ピアノ曲の紹介文を記述する問題」(問題5)で正答した生徒が33.8%だったように、生徒が感じ取ったことや考えたことなどを一定の条件に基づいて記述する問題については正答率に低い傾向が見られた。/中学生に対する質問では 「音楽のよさや美しさを感じ取ることは好き」と答えた生徒は約7割5分いるが、「音楽から感じ取ったことを言葉や文章で表すことが好き」と答えた生徒は約3割5分であることが分かった。/「カリフォルニア州公立学校のための視覚・上演芸術教科の教育内容標準」(Visual and Performing Arts Content Standards for California Public Schools、以下CS。)における「音楽」(Music、以下CSM)のコンテンツを全訳/Gradae5では、自分にとっての音楽の意味を見出すための規準をもたせることを求めている。ここでは、ただ「この音楽が好きだ」ということよりも、「好きだという根拠」を言語で述べさせることにより、音楽を評価するための規準を確保することを重視していることが特徴的である。 - 【PDF】「高等学校第3学年音楽III学習指導案」茨城県教育研修センター(2012年度):
音楽についての理解が深まることで,「なぜ美しいと思うのか」と根拠をもって音楽のよさや美しさを理解することができるようになると考える。/「主題」についての理解を深めるために,生徒にも覚えやすい短い主題をもつ楽曲を鑑賞する。ここでは,すぎやまこういち作曲「ドラゴンクエストVI」のゲーム音楽の中から「悪のテーマ」を取り上げ,ゲームの中での使われ方を通して「主題とは何か」ということを気づかせたい。その上でブラームス作曲「ハイドンの主題による変奏曲」を鑑賞することで,主題とその変奏による音楽を理解しながら味わい,音楽の中で主題がどのような役割を持っているのかを理解させたいと考えた。
(説明・2024年12月8日放送)
(2025年4月4日放送)
- ローソンエンタテインメント「はじめてのクラシック~ドラクエに出てきそうな名曲5選」(2017年9月15日):
今回ご紹介するのはRPGの傑作ドラゴンクエストに出てきそうな名曲5選。ドラクエ・シリーズの中で登場するゲーム音楽とどこか似ている名曲を集めました。ゲームの場面を思い浮かべながら聴いてみて下さい! - 「私立学校」(2024年12月20日):
応援団が相手チームを「おまえ」と呼んだり、けなしたりする掛け声をだめと思っていないままのうのうと生きている年寄りがぞろぞろいるということなので、まったく困ったものである。学校や職場で叱ってもらえるということが、どれだけありがたいことか。誰にも何も叱ってもらえないから、未だに応援団が相手チームを「おまえ」と呼んだり、けなしたりする掛け声をだめと思っていない年寄りがいるのである。あと、この手の通達は公立学校だけのものであって、私立学校というものはまったくもって治外法権もとい無法地帯のままになるのであった。 - 「中学校の美術」:
日本の公立中学校では美術の授業で必ず色相環を習いますが、美術の授業が成立していないような学校や、受験科目だけに時間を割く私立校、海外の学校では、その保証がありません。公立中学校の出身者が大多数を占める地域や職場にいると想像もつきませんが、東京や神奈川では私立中学校の出身者が非常に多く、色相環を習っていない人のほうが多いという職場もあるかもしれません。「色相環は学校で習うものではない」と思い込んでいる人にとって、色相環を用いた説明をしようとする人は「専門家でもないくせに生意気だ」「文句が多い」と見えてしまうのでしょう。しかし、日本の公立中学校では美術の授業で必ず色相環を習います。専門的に色相環を使う専門的な職業はもちろんありますが、色相環という知識そのものは常識です。/日本の公立中学校では美術の授業で必ず色相環を習いますが、本人の意思で学校や専攻(コース)を選ぶ高校以上の学校とは異なり、中学校では生徒の色覚特性への配慮が優先されます。色相環を習うといっても、モノクロで印刷されたペーパーテストで用語の穴埋め問題を解けばよいだけで、色相環をばらばらに切ってから正しく並べ直すといった実技は問われません。/色相環を習ったといってもその程度なので、これ自体はとりたてて深刻な格差というわけではありませんが、色相環を習ったか習っていないか(≒通った中学が公立だったか私立だったか)という違いは大人になってからふとしたときに顕在化して、例えば色彩に関する話が通じないなどの実害を引き起こします。その程度とはいっても無視できるものではありません。 - 「公立中学校の給食」(2023年11月11日):
横浜市と川崎市では公立中学校の給食がなかった/ほかの地域で思われるような私立校と違って、中学生の子どもに弁当を用意する(時間的)余裕を持たない家庭ほど、子どもを私立の中学校に入れようとする、そのような進学の動機の希薄な者を定員充足のために諸手を挙げて受け入れるかのように「学食」(食堂)を完備した私立校が乱立している(⇔だから公立中の給食は提供食数が微妙で実現へのハードルが上がってしまった) - 「私立学校」(2025年4月1日):
私立学校の内情がどうであれ知ったこっちゃないという立場である。しかし、公の場で何を言い、何をするのか。/公立学校で不正な事柄を見聞きしたといったことがあれば学校ひいては教育委員会に訴え出ることができるが、私学では「学校ならいくらでもある」「気に入らないならよそへ行けばいい」で終わってしまうということ。民間の契約でしかない。/通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃の…もとい保護者から引き離して保護する場合がある。仮に「悪意のある運営がなされている学校」があれば、学校からも引き離して保護しなければならない場合が出てくる。「悪意」ではなく「未熟」「無責任」ということでも、子どもが保護される仕組みはできないのか。/民間ならではの、ひいては(自称)ボランティアの「強い責任感」により運営されているが運営は「未熟」だというケースがありうる。公立学校に悪い印象を持たせ私学を選ばせようとするようなものも、それに類する。「専門家に任せる」という態度や考えが定着していない世代や地域があるとすれば、その根本には「専門家と話が通じない(同性の同級生としか会話できない)」という未熟さがあるのではないか。なぜ公立学校をよくしようとしないで私立学校に行きさえすればよいと考えてしまうのか問えば答えに詰まる。 - 「私立学校」(2025年4月1日):
代わりの人間はいくらでもいるんだぞ。規模の大きな私立学校に入れられた生徒らに容赦なく浴びせて競争心を煽る言いかたである。公立の学校ではほとんど聞かない。そんなことを言ってはいけないという「常識」がある。公立と私立で食い違いがあるときは、公立のほうが絶対に正しい。そのような社会であり続けなければ、社会が成り立たない。 - 「三連符」(2023年8月1日):
小学校から中学校まで日本で通っていれば三連符を知らないはずはないので、ことさらに三連符を説明しようとすると、どういうリスナーを想定しているんかなという疑念が出てくる。三連符について強調しすぎという変な感じは、通常ない「大船なのに銀座」という疑問をひたすら繰り返し問うくらいに不自然なものだ。 - 「学習指導要領」(2023年9月1日):
「歴史探偵」あるいは「ブラタモリ」のように「総合」チャンネルでの放送を前提にする番組では、大統領の演説に使う単語と同じような意味で、学習指導要領に照らして、どこからどこまでの言葉を使うとか、どういうことは知っているものとみなし、どういうことは知らないものとみなして、例え出演者個人が知っていても知らないふうを演じてもらうのかといったことを、きわめて厳密に取り扱うものである。そうした「総合」チャンネルでは普通の体制が「NHKエデュケーショナル」にポンと投げて作らせて変な時期(番組改編期など)の埋め草として放送される「パラレルニッポン」の制作には、まったくないんだなと。 - 「教養規範」(2019年1月1日):
“社会、理系のことも含めて「いろいろ知っているべきだ」という〈教養規範〉が本当に弱くなったと感じます。”/“僕が院生時代の2000年代半ばでも、古典から現代まで幅広く知っているべきで、人前で無知をさらすことは極度に恥ずかしいという感覚がありました。カントについてのある事柄を僕が知らなかったとき、それに気づいた先生に「千葉くん、それを知らなかったということは絶対に口外してはいけません」と言われたのを印象深く覚えています。あのときは本当に怖かったのです。そういうプレッシャーを今の世の中でもう一度、とまでは思いませんが、今はインターネットでどんどん芋づる式に調べられるし(以下略)”(千葉雅也さん) - 「卒論」(2022年6月1日):
世の中には卒論を書いてない「大卒」がごまんといて、“なぜか”そちらのほうがいばりちらしているのである。「なぜか」とはいうけれど、それはもう「卒論を書いていない」ということが主な原因なのは疑うまでもあるまい。物の調べかたも引用のしかたも、卒論をじぶんで仕上げない限りは“耳学問”のままになってしまう(真にじぶんの身につくということはないだろう)。 - 「級長」(2023年11月1日):
「すぎやまこういち」が「級長」や「先生」っぽさを発揮して、「ドラクエ」が「クラシック」になった。例えていえば、保護者が子どもの自由研究の面倒を見るような感じである。あくまで取り組むのは子ども本人であるが、あの手この手で子ども自身に考えさせ、どんなにたどたどしくてもいいから子ども自身の言葉で本人の考えを語らせるということである。/楽器を眺めてから墨汁を買う。これが「千葉」だ。「すぎやまこういち」本人が「多田屋」という名前を知らなかったり覚えていなかったりしたとしても、千葉の学校にいたのなら、そこで使う教科書や教材その他の道具は、きっと「多田屋」が納品したものに違いないのだ。要するに音楽家「すぎやまこういち」を生んだのは「多田屋」なのだ。/「すぎやまこういち」の「級長」や「先生」っぽさの原点が(「奈良藩士の末裔」ということのほかには)「千葉」にある。なんか変に通じるところがあって困る。
もはや「ドラクエ」は「クラシック音楽」の代名詞の代わり(?)くらいにはなりつつある。ローソンエンタテインメントの記事で挙げられている5曲は、小学校高学年になったとか中学生になったといったタイミングで自分専用のラジオを持ち、そこから1年ほどNHK-FMを聴いていれば、必ず聞く機会があるだろう。中学・高校の音楽鑑賞会は3年に1回の実施でじゅうぶんたまたま放送されない年があるかもしれないが、3年以内には必ず聞くことになるだろう。通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃の…もとい保護者のお墨付きが得られやすい全国的にはラジオといえばNHK-FMである。少子化の時代にあっても学校の吹奏楽部は縮小しないので、吹奏楽をきっかけにNHK-FMでクラシック音楽に親しむ子どもの割合は一昔前よりもかなり高まっているはずだ。いくら音楽の教科書の「鑑賞共通教材」が廃止されたとはいえ、小中学校の音楽の授業で「クラシック音楽」にまったく触れないことはありえない(※音楽の教科書をまったく使わないことがありうる私立学校を除く)のだから、そもそも「はじめてのクラシック」と称して曲を紹介される筋合いはない。まさに東京と神奈川で乱立する小規模の私立学校のための合同の音楽鑑賞会を兼ねている(複数の学校を集めても席が余るので一般にもチケットを売るのだ)と思しき「はじめてのクラシック実行委員会」主催の公演の見よう見まねとしか言いようがないレベルで記事のタイトルがつけられている(理屈を自分で考えていない)ことはさておくとしても、CDを5枚も買えば1万円札に羽が生えるたったの5曲で「ドラクエ」を語れるはずもない。NHK-FMを聴くともなしに聞いているだけで、おびただしい数の「クラシック音楽」を聞くことになるものだ。聴こうと思っていたわけではないのに「…これは!」と思って聴き入るような曲との出会いが、本当にたくさんあるのだ。
- 日本経済新聞「私立高校無償化に保護者7割が賛成」(2025年10月20日):
私立高校の受験を目指す中学生の保護者のうち、無償化に「賛成」「どちらかといえば賛成」と答えた人は全体の74%だった。/子どもが私立高校を志望する理由について複数回答で聞いたところ、「学習環境・設備が整っている」との回答が38%と最も多く、「大学進学実績」が30%、「無償化など経済面で通いやすい」が27%と続いた。 - 日本経済新聞「高校授業料の無償化、識者に聞く注意点」(2025年5月8日):
“私立高は本来、収入面で高校の費用を賄うことができ、私立の教育方針に共感する世帯が通うところだ。”/私立高は短期留学などの国際交流活動に力を入れるところが多い。/“修学旅行の行き先がシンガポールなどの東南アジアや欧米といったところもある。”/文部科学省の「子供の学習費調査」によると、授業料を除く費用は私立高で子ども1人当たり年間約53万円で、公立高の約30万円を7割強上回る。
音楽鑑賞会の実施ひとつとっても公立と私立は相いれない。公立学校の音楽鑑賞会のプログラム(曲目)は教育委員会の責任で決めるが、教育委員会が私立学校(私学)の音楽鑑賞会に口出しすれば私学の自主性を侵害してしまう。私学は私学だけで集まって私学の自主性に基づいて「はじめてのクラシック」という一般にもチケットを売る演奏会のプログラム(曲目)を「実行委員会」の名義で決めるわけだ。なあに、私学の人たちはノルマとして知人や卒業生を通じてチケットを売りさばくのに日頃から慣れている。「はじめてのクラシック」のチケットが一般にも売られているからといって、本当に一般の人がローソンなんかでチケットを自分で買って「はじめてのクラシック」にのこのこ出て行ったらツーバイフォー『アウェー』すぎて大恥をかく。とまれ東京と神奈川でコンビニが如く乱立する私学には私学の矜持が足りないと感じないでもない。公立の学校では言えないことではあるが、学校の音楽鑑賞会で「はじめて」オーケストラを聞くのでは手遅れ感が高い。6歳では個人差が大きいとして、せいぜい8歳や10歳になったらマナーを教わりながら「未就学児入場不可」となっている『本物』の演奏会に行くべきなのだ。話はローソンエンタテインメントの記事に戻り、いったいどのような読者に向けて書かれた記事なのかということについては疑問を持たざるを得ない。…ひとのことはいえないけれど。
なぜ「クラシック音楽」を学ぶのか
- 「理系」(2024年4月1日):
音楽と工学には通じるところがある。芥川也寸志の「やぶにらみの音楽論」のようなセンスは、音楽もしくは工学あるいはその両方をかじる「ぼくら」なら誰しも、わりとマジで(げふ)ふつうに持っているものだ。世の中には芥川也寸志とかいうとんでもない音楽家がいるそうですが(ぶつぶつ)みたいなことをじぶんでいう。そういう見方をする特訓を受けてきているということであって、それ以上でもそれ以下でもない。そうでなければ音楽はできないし、工学も成り立たないのである。それをいかにも芥川也寸志しか持っていない独特の(“変人”ちっくな)センスであるかのように言い募るのは失敬なこと極まりない。片山杜秀氏を名乗る片山杜秀氏の工学との接し方に疑問を持ってしまう。それはすなわち、工学と通じるところがある音楽とも、きちんとした接し方ができていないのではないかという疑問につながってしまう。 - 「業間休み」(2022年7月1日):
録音技術というカタチで民衆が音楽を手に入れた。(ガタッ
- 小石かつら「グーテンベルク記念祭と《讃歌》」(2025年1月29日):
1840年6月、ライプツィヒでグーテンベルク記念祭(印刷術400年記念祭)が開催された。/印刷技術が完成した時期は実のところ不明で、グーテンベルク聖書が印刷されたのは1455年だ。1840年当時から「1440年に何があったのかわからない」という疑問が発せられていたというのだからおもしろい。/この(いわくありげな)グーテンベルク記念祭のために新曲を依頼されたのが、市の音楽監督メンデルスゾーンだった。/愛国的な感謝を提示するためには、ファンファーレで開始し、闇に対する光の勝利を描くことも、神への静かな感謝も、必要だっただろう。/何の目的の祝祭なのか正確にはわかりづらく、政治色も強い機会。メンデルスゾーンは、そのあいまいで複層的で思惑のからまった条件に対して、ぴたりと合わせた最高の作品とパフォーマンスを提供したのである。 - (公社)企業メセナ協議会「凸版印刷株式会社/トッパンホール」(2017年4月25日):
「ルネサンス期になされた三大発明の一つに活版印刷があります。楽譜が印刷され、西洋のクラシック音楽が世界中に届くようになったのです」/バッハの作品は数多くあるが、実は、彼の生前に印刷された作品はそう多くない。没後100年を経て出版された『旧バッハ全集』などの印刷楽譜が、今日の作曲家バッハの人気の礎となっている。印刷楽譜によって、音楽は世代を超え、海を越えて我々のもとに届いたわけである。
「クラシック音楽」は活版印刷あってのもの。人が手で書き写す写本ではなく機械を用いた印刷により楽譜が正確かつ大量で安価に複製され普及したことが次代の音楽家を次々に育てていったのである。「クラシック音楽」は人類最初の体系化された音楽の体系であり、音響の追求は建築にまで及び、新しい音楽を生み出すためには新しい楽器すらも必要に応じて開発されていきながら、音楽に関するありとあらゆる試行錯誤の過程がすべて記録されている。「クラシック音楽」は単なるジャンルの1つではなく「音楽に関する『科学』」と言ってもよく、蓄積された膨大な楽譜は一種の『実験ノート』である。この意味で「クラシック音楽」は西洋だけのものでなく人類共通の財産と成りえている。わたしたちが学ぶべきは個々別々の楽曲ではなく「クラシック音楽」というシステム(枠組み)なのだという言い方もできよう。「古い」というイメージがある「クラシック音楽」こそが「最新の音楽」を「最短」で生み出す方法論となっているのだ。先人たちが何度も踏んでしまった轍をわざわざ踏みたい人などいない。…いるかもしれないけれど。